西武線 廃線、廃駅めぐり~ 調布飛行場引込線

今回は西武多摩川線 調布飛行場引込線の探索をしたのをまとめてみました。

調布飛行場の建設で線路が敷かれ、飛行場が米軍から返還されるまで存在していたようです。 
線路跡は整地されているので鉄道の痕跡はありませんでした。

*ここは意外と資料が少ないのでここに出で来る駅名は仮称です。
*資料の調査が十分ではありません。
のちに解りました事は追記、訂正等をさせていただきます。
 


◎ 多摩川線と調布飛行場の歴史
多摩川河原で採取した川砂利を運搬する目的で、
多摩鉄道が開業した。
1910年(明治43年)8月5日
          多摩鉄道設立

1917年(大正6年)10月22日
          境(現・武蔵境) - 北多磨(現・白糸台)開通
          北多磨機関庫(白糸台車両基地)開設

1919年(大正8年) 6月1日
          北多磨(現・白糸台) - 常久(現・競艇場前)開通

1919年(大正8年)7月1日
          境駅から武蔵境駅に改称           

1922年(大正11年)6月20日
          常久(現・競艇場前) - 是政間開通

1927年(昭和2年)8月30日
          (旧)西武鉄道に合併

1941年(昭和16年)4月
        東京府により調布飛行場が公共用飛行場として開設。


1941年(昭和16年)7月20日
       防衛総司令部が新設。
       調布飛行場には、第17飛行団と、飛行第144戦隊(後に244戦隊と改称)が配置
       調布飛行場は帝都防空の最重要基地となった。

          飛行場と東京天文台の間の水田を埋め立てて
          東京飛行機製作所(後の倉敷飛行機)調布工場が開設

           (昭和16年12月には、三鷹村大沢の広大な用地に
            中島飛行機三鷹研究所の建設が開始されている。)
 
昭和17年~19年
          拡張工事
が実施された。

1945年(昭和20年)2月16日
          帝都空襲で調布飛行場も16、17両日にわたって
          攻撃(ほとんどが機銃掃射)を受けた。

1945年(昭和20年)4月7日
          硫黄島を発進した米軍機が来襲した。
           これ以降、本土上空を我が物顔に飛び回り、
          帝都空域は無力に等しい存在となった。

1945年(昭和20年)5月17日
          調布飛行場の主たる244戦隊も特攻のため九州知覧へと移動、
          このため帝都防空の守りがなくなり調布飛行場は、
          その役割を果たさなくなってしまった。

1945年(昭和20年)5月25日
          帝都西部を襲った焼夷弾攻撃は調布飛行場南地区、
          東地区も被弾、これにより大格納庫と木造格納庫4棟を
          はじめ多くの兵舎が焼失した。

1945年(昭和20年)8月15日
           終戦

1945年(昭和20年)8月22日
           全軍に武装解除命令

1945年(昭和20年)8月24日
           航空機の飛行が禁止
------------------------------------1945年(昭和20年)9月2日
          調布飛行場の武装解除を米軍が確認した。

1945年(昭和20年)9月4日
          米陸軍第8軍 騎兵第1師団 第12連隊調布飛行場を占領。

1945年(昭和20年)9月17日
          進駐連合軍より日本政府に調布飛行場接収

          調布飛行場ならびに倉敷飛行機会社調布工場は
          米軍施設として供用される


1946年(昭和21年)6月
          調布飛行場西地区一帯に、水耕栽培の実用施設としては
         世界初となった。
          調布水耕農場(米陸軍総合補給廠
               糧食補給部第8002部隊)の建設が開始された。

1946年(昭和21年)12月
          水耕農場は、突貫工事の末、一部が稼働。
          調布飛行場は水耕農場の補助施設のようになった。

    1948年航空写真
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1954年(昭和29年)8月
          飛行場の日米共同使用がアメリカ側から認められた。
   
1955年(昭和30年)2月
          飛行場地区の一部が日本に返還され、
          国(運輸省)の管理により場外離着陸場として
          運用されるようになった。

1956年(昭和31年)
          当時未利用であった飛行場北東の地域が日本政府の要望で
          返還され、民間航空の小型飛行機整備基地として
          使用されることとなった。


         おそらく(仮)倉敷飛行機会社調布工場駅線はこの時点で無くなっていとおもわれます。

    1956年航空写真
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1959年5月26日
          西ドイツのミュンヘンにて開催されたIOC総会において
          第18回夏季オリンピックが東京で開催されることが決まった。

1960年 (昭和35年)         
          調布飛行場東地区にはヘリコプター、連絡機の基地として
          米陸軍飛行部隊が駐屯していたが撤収した。

1961年(昭和36年)
          調布水耕農場閉鎖
         
          (仮)調布飛行場引込線 調布水耕農場駅 閉鎖
   
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          東京オリンピック開催の時、代々木にあった米軍施設と
          通称ワシ ントンハイツと呼ばれた住宅は選手村として
          使用されることになるため米軍関連施設は
          府中基地周辺と調布水耕農場跡地に移転された。
         ( 関東村とは、調布飛行場近辺地域に移転してきた
          米軍施設や住宅を総称して付けられた名称である。)

     1968年航空写真
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1973年(昭和48年)3月
          飛行場地区が日本に全面返還された。

1974年(昭和49年)
          関東村住宅地区は日本に返還された。

     2005年航空写真
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   備考-現在の代々木公園付近の航空写真

    1948年(現在)代々木公園付近の航空写真
         代々木練兵場は米軍に接収され米軍施設とワシントンハイツ(米軍住宅)となった。
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    1963年(現在)代々木公園付近の航空写真
         代々木競技場やオリンピック放送センター(NHK)が建設中
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    1964年(昭和39年)
         第18回夏季オリンピックが東京で開催

    1966年(現在)代々木公園付近の航空写真
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◎ 引込線の建設の経緯
このような資料がありました。
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調布飛行場建設計画説明書(抜粋) 出典 行政資料に見る調布の近代

東飛建発辰第一七八号
   昭和十五年四月二十日   調布飛行場建設事務所

計画説明書

総説
 本設計は都市計画事業による陸上飛行場建設工事にして、東京府北多摩郡調布町三鷹町多磨村ノ一部(北緯三五度四〇分東経一三九度三二分標高平均A、P、上四四・〇米)に位置を占め、総面積一三六五八〇平方米を有するものとす

一、地均し工
 飛行場勾配は概略天然の地形に順応せしめ、南北は水平にして西より東に向ひ〇・三三%乃至〇・二五%の下り勾配に切取又は盛土をなし、最北端部のみ在来地形の関係上一・五%の上り勾配とし、盛土量及び切取土量概ネ均等ならしめ、水平部とは縦断曲線を以て緩和せしむるものとす

一、排水工
 飛行場排水は主として、一二五米乃至一三五米間隔ニ設置する表面排水溝により降雨地表水を蒐集し、人孔より配水管を経て場周囲の開渠ニ誘導したる上、附近野川に連絡放流せしむるものとす(以下略)

一、其他
(イ)砂利、砂及玉石
 工事用砂利類ハ附近多摩川より直営採取の上、之カ輸送は西武鉄道場内引込線により運搬するものとす
(ロ)人夫
 職工人夫は時局柄払底せるため大部分は刑務所受刑者を使用するものとす


飛行場北に残る刑務所受刑者に作らせた排水路
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◎線路の使われ方
戦前、戦中の役割
飛行場建設のために敷設され、その後飛行場に隣接した工場が他の工場間の輸送に利用した。

その工場は東京飛行機製作所(練習機の製造)と言い、
後に倉敷紡績傘下に入って「倉敷飛行機株式会社」と改称。
昭和20年4月、中島飛行機を主体とする第1軍需工廠創設に伴い、
同廠に吸収されたが、実質的には、直近の中島飛行機三鷹研究所の分工場
という形になって他の工場間の輸送に使われた。

戦後の役割
(仮)倉敷飛行機会社調布工場駅
米軍時代には引き込み線路が格納庫の屋内まで敷設され、
調布水耕農場の倉庫または出荷場として使用された。

(仮)調布水耕農場駅
調布水耕農場の出荷場使用された。

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 ◎現在の跡を探索
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現在の多摩川線 新小金井第5踏切、多磨駅寄りから分岐しています。
ここをスタートに調布飛行場までたどって行きます。
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1 多摩川線 新小金井第5踏切
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2 道路の両脇は造成されていて跡らしきものはありません。
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3 現在、学校の敷地沿いを通っていて住宅の敷地が
道路に対して斜めになっているのが確認できます。
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5 隣接する土地の境が斜めになっています。
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6 住宅地の中にわずかに道路して跡があります。
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7 住宅地を抜けて公園(飛行場)に入ってきます。
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8 現在の調布飛行場と公園の境あたりを通っていたみたいです。
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9 調布飛行場側にあるジャムコとジャムコの工場に挟まれた道路が跡のようです。
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10 (仮)倉敷飛行機会社調布工場駅
現在は宇宙航空研究開発機構 JAXA 調布航空宇宙センター調布分室
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11 (仮)調布水耕農場駅、現在は 少年野球の野球場になっています。
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